ばっかじゃないの!

じゃみらー

式変形を追うことの意味

物理の輪講をしていると、テキストにある式変形を追うことになる。
非常に厄介な計算なのに「少しの計算で」などと書いてあったりする(愚痴


ふと思ったことだが、わざわざ計算を追う必要はどこにあるのだろうか?
これは反語的な意味でなくて、ただ純粋に何の必要があるのかと疑問。


すぐに「論理展開が正しいか確かめるため」という回答を思いついた。
テキストに書いてあるけれど、それが本当に正しいのか自分で確かめる必要があるということ。


でも、色んな人が計算を追って、確かに「確からしい」となっているとしたらどうだろう。


なるほど、「論理展開が正しいか自分の手で確かめるため」と言えば意味があるかもしれない。


でも僕はこれについてあまり同意できない。
というのも、理解すべきはあくまでテキストに映された物理であって、計算ではないから*1
もしも計算を追うので手一杯になって「計算はできたけど中身全然分からない」という状況になったなら元も子もないんじゃないか。


何が言いたいかっていうと、まず第一に理解すべきは物理であって、計算ではないということ。
式変形が出来なくたってテキストの言いたいことが理解できたらとりあえずの及第点になるはず。
計算は二の次。


良いテキストは、式変形を追わなくても最低限の主張は分かるように書いている。はず。
(式変形を追うことでさらに物理の景色が広がるなら名著。たぶん。)


こんな風なことを書くと、非常に誤解されそうで怖い。
とりあえず物理を理解することに輪講の意義は根ざすべきだと思う。


誤解のないように敢えて記すなら、式の意味は理解できないといけないと僕は思っている。
式の変形ができるできないと式の意味を理解できるできないは別の問題だということ。


本質を数式に起こすこと/数式から本質を抜き出すことができないと物理を理解できたとは言えない。

と、僕は思う。
逆にそれさえ出来たら計算なんていちいち追う必要はない。と思う。


補足するなら、計算スキルと数式から本質を抜き出す力って関係してるとは思う。
だから物理をより理解しようと思うなら、計算を追うべきだと思う。
これが最初の「わざわざ計算を追う必要はどこにあるのか」に対する、僕なりの回答。


「計算を追えた!」というのは自信に繋がるだろうし、喜びでもあるとは思う。
だけどそれで書いてあることは分からんままだと、あまりに虚しすぎる。

*1:もちろん計算手法のテキストなら計算を理解しないといけないので、物理の輪講で使うテキストについての話