ばっかじゃないの!

じゃみらー

目的のためなら手段を選ばない

基本的に僕のやることは、道徳的というか社会的というか、そんなものに反している。
僕自身はそういったものを軽んじているつもりはないけれど結果的には軽んじていることになっている。


ただ、はじめから軽んじている場合と同じように見えてしまうのが個人的に不都合ではある。
僕としては違うんだと言いたいけれど、やっていることは変わらないので何とも言いかねる。


そのようなことが間々ある。
その場合は何も言えず、ただ黙り、大人しくするしかない。
反発したところで自分に非があるのだからそれは苦しい言い訳にしかならない。


何らかのコミュニティにいる以上、必ず道徳や社会性は要求される。
いくらやることをやっていたところでそのコミュニティを壊しかねない場合は必ず排除される。
もしも排除されずに生き残った場合、そもそもそのコミュニティが崩壊する。
それはそのコミュニティの母体である、より大きなコミュニティに排除されるということに等しい。
どっちにしろ排除されるに違わない。
一人で生きているのでないのだから、最低限の道徳や社会性は要求される。
それに応じられないのならば。


社会に要求される道徳や社会性に反発するだけの若さがある人間は不良になれる。
不良になるだけの強い思いも反抗心もなくなれば、自然と社会に迎合する。
支持母体がないというのは、非常に生きにくいものだから。


ただ、何かしらの染まらない部分というのは必要だと思う、新しい何かを生み出すためには。
その思いが僕を突き動かしている。


まぁくどくど書いてて、ふと思ったけど、結果論でしか物事を考えられないのはいただけないね。
結果論でものを言うのが苦手な僕は、まどろっこしいんだろうけれど。


欲しい結果はズバッと一つに定まってるとして、前提を加味して導き出される最短経路をバシッと示すのが結果論。
っていうイメージ。
僕は、その選んだ経路がなぜ最短になるのかが気になってならない。
その他にも経路があるはずだから。


なんだか、必要条件と十分条件との話になる気がしてきた。
結果論というのは十分条件しか見れないんだ、たぶん。



あと、社会的とか道徳的とかを、評価として用いる場合はその対象は行為のみだということ。
モチベーションがどうであれ、ムーブメントがアレだといかんという評価を得るという話。
逆に言えば、モチベーションについては何も言えないということ。だと僕は思っている。