ばっかじゃないの!

じゃみらー

定量性について――程度の差こそあれど同じか?

物事を定量的に扱うこと。
自然科学がここまで成功したのは、これに尽きると思う。
定量的に扱うために、科学は実験に再現性を要求した。
裏を返せば、再現性がないと定量的に扱うことができない。
ちなみに再現性とは、同じ条件下では何度同じ実験をしても同じ結果が得られるということ。


「程度の差こそあれ、同じ」と言う。
もしもその「程度の差」が1と1万くらいの差があったら、同じと言えるだろうか――というのが定量的に扱うということだ。


たとえば1メートルと1万(つまり10キロ―メートル)との違い。
かたや1メートル先。
目と鼻の先で、大人の一歩くらいだろう。
それに対する10キロメートルとなると、非常に遠くに感じる。
歩いて行こうと思えば、健康で元気な大人の歩く速さは時速6キロメートルほどだから、1時間かけてもたどり着けない計算になる。
それでも「程度の差こそあれ、同じ」と言えるだろうか。
1メートル対1万メートル。


まず第一に注意して欲しいことは、程度の差が非常に大きい場合は、すでに同じとは言えないだろうということ。


そして第二に、上のたとえで言えば、違うか同じかの判断をしたのは「健康で元気な大人の歩く速さ」だということ、それが注目するに値する。
1メートル対1万メートルを大人の足で評価した場合、その差は無視できない。
つまり、違うものだと言わざるを得ない。
だが、その評価基準がまた別のものだったとき――たとえば自動車だったとしたらどうだろう?
時速60キロメートルで10キロメートル先まで行こうと思ったら、10分で着く計算になる。
まぁ1メートル先なんて1分もかからないだろうが、10分と1分足らずの違いはあまり変わらないと言えなくもないだろう。
つまり「程度の差こそあれ、同じ」だと言える*1


評価基準が、人の歩く速さと自動車の速度との違い。
これはスケールという、物理を考える上でとても重要になっている。
スケールが違うと、程度の差に対する評価が変わってくる。
スケーリングの話で用いられる良い例に、鳥のようには飛べない人間がしばしば挙げられる。
飛行機が考えられる前の時代には、鳥のように羽根を作り羽ばたいて飛ぼうとする人が後を絶たなかったようだ。
――鳥がああやって飛んでいるのだから、人間だって飛べるはず。
そう思っても飛べないのは人間が重すぎるからだという話。


言いたかったことは、定量的に扱わなければ「程度の差こそあれ、同じ」という考えより先へは進めないということ。
そして、定量的に扱うことの効力は、どういうスケールで考えるかで変わってくるということ。


※この文章は2009年07月06日に書かれたものです.
XMLデータ:定量的に扱うこと

*1:現実的な例を挙げるなら、こういうのはどうだろうか。歩いて目的地まで行くときに、自動車に乗っている人に道を尋ねて「もうすぐそこだよ」という返事を得たとき。 自動車でばかり移動している人は、つい“車で行けば”すぐそこだと言ってしまうことがないわけではないだろう。 実際に去年の夏、四国に行っているときにそういうことがあったし、同じような経験をしている話をよく耳にしていた。