ばっかじゃないの!

じゃみらー

血筋にどれほどの意味があるのか

以前読んだノーバート・ウィーナーの『神童から俗人へ わが幼時と青春』にこんなことが書いてあった。

ここで私は、ユダヤ人の学問的伝統と無関係ではないユダヤ人の家族構造について一言しておきたい。大昔から若い学者は、とりわけユダヤ律法博士(ラビ)は、世間のことをまるで知らなくても、また、世間で立身出世する才覚がなくても、つねに富裕な商人の娘の花聟になれたのである。生物学的にみると、このことは昔のキリスト教徒の場合と著しく対照的な状況をもたらした。西欧のキリスト教徒の学者は教会に吸収され、事実の如何にかかわらず、子どもをつくらないものとされ、実際にも一般の人々より子どもを少ししかつくらなかった。これに引きかえ、ユダヤの学者は大てい大家族を持てる境遇にあった。
したがってキリスト教徒の生物学的習慣は学問に役だつ遺伝素質を民族から締めだす傾向にあり、これに反しユダヤ人の生物学的慣習はそれらの遺伝素質を民族内で育成する傾向があった。この遺伝上の差異がどの程度までユダヤ人の間に学問を好む文化的気風を助成したかは断言しがたい。しかし、遺伝的影響は無視できるほど小さかったと信ずるべき理由も無い。

一応断っておくが別にユダヤ人が民族的に優れているなどという意見を、私は持っていない。
ただ、血筋ってのが全くないということでもないとは思う。