ばっかじゃないの!

じゃみらー

還元主義とか

物理の学徒は「コイツは物理がちゃんと分かってる」とか「彼奴はてんで物理が分かっていない」だとかいう物言いをされることがある.名だたる教授クラスに「物理が分かっていない」なんて言われた日には,畢竟,「君には物理で食っていけるだけのセンスも伸びしろもない」と言われるようなものだと思っている.

ところが,面白いことに,教授クラスのひとたちの間でも「物理が分かっている/分かっていない」の見解が必ずしも一致していないのである.それをよくよく見ていくと,どうにも研究のスタンスや“物理観”に依って判断が別れていたようだ.物理観という語を持ち出した理由は,人生観に似たものを物理に対する姿勢や見方に見いだせるからだ.

まぁ物理の研究者になりたいのなら,なぜ物理の研究をしたいのか,どうして,経済(たとえば)じゃなく,物理なのか,に対する自分なりの答えくらい持っていないといけないだろう.「ただ研究が面白かったから」という答え以上の何かがなければ「職業としての」研究者には値しない.

そういうものを加味すれば,物性物理なんていう多様性を絵に描いて額縁に入れたような分野では,少なからず物理観にも多様性が見いだせる.これが,数学や素粒子物理学なんかだと,あるいはそもそも物理観が一意に定まって多様性などないのかもしれない.

ただ,ぼくの中では,突き詰めてしまえば,物性物理においても物理観に多様性は許されないと思う.第一原理に基づけば,そうでなければいけない.というか,物の理を求める学問に色んな在り方があっては自己矛盾も甚だしい.物性物理というのは,無数のパラメターが相互に影響を及ぼしあって,実に様々な現象を引き起こす分野ではあるが,それはパラメターのせいであって,物理そのものが無数にはないのだと思う.

何が支配的かによっては違う物理が見えると言うひとがいるのは確かだし,モデルを建てて,それを以て現象にアプローチする姿勢では,確かにその言は正しいとは思う.けれど,それは,そのモデルの妥当性を不問にふしているときまでで,もしも第一原理に基づいて,そのモデルの妥当性まで十二分に吟味できる段階に来たときには,一つの物理に基づくべきだと主張したい.(蛇足ながら,そのときになっても,モデル計算の重要性は何一つ変わらないと思うことを付け加えておくべきかもしれない.)

これは,"More is different"に表現されるような,圧倒的な量的違いが質的な違いを生じるということにも通じるし,だからと言って,根源には「圧倒的な量的違い」しかないことを忘れるべきでないということになるのだと思う.「何が支配的かによっては違う物理が見える」のは,そう「見える」だけだということ.