ばっかじゃないの!

じゃみらー

湯川秀樹著『本の中の世界』岩波新書

湯川先生がご自身の記憶に残っている愛着のある本を手あたりばったりに紹介する形式。
「本が読者に見せてくれる世界」というものを大切にしたいみたいな趣旨。


古文とか漢詩とか浄瑠璃とか狂言とかそれほど身近でないのでよく分からなかった。
諸子百家の話はだいたい分かったと思う。
ドストエフスキーは『罪と罰』しか読んだことないけど『カラマーゾフの兄弟』は有名らしい。
森鴎外の『舞姫』と源氏物語は途中で挫折した記憶がある。
永井荷風は受験の時に何冊か読んで少し馴染みがあるけれど『あめりか物語』は読んだか定かではない。
エラスムスエピクロスは世界史で名前を覚えたくらい。
と、まぁ湯川先生は本当にいろんな本を読んでたんだなアと。


「わが世界観」「晩年に想う」の最後のところが印象的だった。

「その時代の気風がどうあろうと、それを超越できるのが人間の高貴さというものである」

どういう文脈だとか抜きにして、単純に心惹かれた。


「ラッセル放談録」のところも面白かった。
理系の人が今の社会を作ってると言えば確かにそうだけど、そもそもの方向性を打ち出すのは哲学者だったり作家だったりする。
哲学者であるラッセル卿が、

「結局のところ、科学知識は人類が興味をもち、また、持つべき事柄のごく小さな部分しかカバーしていません。〜〜」

と言っている。*1
理系の世界にいるとそれを忘れて、どんどんと細かい部分にばかり目をやりがちであること。
だから文学とか小説を読むことは大切だとか思ったりもする。

最後のところでラッセルを老荘思想と合わせて述べていたけれど、あれは禅で言うところの無心と言われるやつじゃないかな、とか云々。


短かい自叙伝に学者をカタツムリに喩えているところがうまい。

考えて見ると滑稽なことですが、しかしまあ学者というものはそういうものなんですね。
一種のカタツムリみたいなもんです。
目に見える書物だけでなく、目に見えない色々な知識の蓄積と、それに伴う先入観や固定概念、そういうものを終始背負って、のろのろとしか歩けないのが学者だろうと思います

湯川先生の父親も学者で、興味を持ったことに関係する書物は手当たり次第に買ってきた。
それが家にたまっていくからどの部屋も本でいっぱいになって、だんだん広い家に移っていったという。
なるほど、たしかにカタツムリか。
…ん、むしろヤドカリ?

*1:これはごく小さな部分なので取るに足らないと言っているわけでなく、ただの現状の説明でしかない。