ばっかじゃないの!

じゃみらー

歩いて帰ろう

卵が先か,鶏が先か.
卵からヒヨコが生まれて成長して,鶏になってまた卵を産むことで成り立つのか.
鶏が卵を産んで雛が孵って成長して鶏になることで成り立つのか.
気になったら夜も眠れないかもしれない.


でも僕には興味がない.
確かにどこからループが始まったのかは気になるけれど,それは僕が考えたところで正解は分からない.
現状で輪っかになっているものを,どこで切ろうが同じものが得られるのだから.
のり付けされている部分を探すためには,実際にその輪っかを細かく調べてみないことには分からない.
考えたところで出る結論は,仮説でしかない.
もしかするとループの始まりはひとつじゃないかもしれないし,全く突発的にループが始まったのかもしれないし.


ただ,漢の浪漫ではある.


ある理論が理論として成り立つために必要なことと,理論そのものが理論というものとして成り立つために必要なことは違う.
専門用語ちっくに言えば,「理論という集合を,何をもって定義するか?」という問題と,「これは集合「理論」に属するか否か?」という問題は違うという話.
ただ集合全体の名前もその要素のどちらも同じ「理論」と言われるだけの話.


何となくイメージとして,上の理論という集合全体を考えるのが数学で,個々の要素を考えるのが物理学な気がする.
変な要素が出てきたとき,集合全体を見直さなきゃいけなくなるとかで,物理学が数学に影響するとか.
「理論」集合の定義から個々の要素を検証することでこういう要素が存在し得るんじゃないかということも言えるだろうし.


で,何が言いたかったかって言うと.
自分が何を考えてるのか分かってないといけないんじゃないかってこと.
考えても答えの出ないことを考えてるのかどうか.
まぁ,考えてる「だけ」じゃ正しい答えなんて分かんないんだけど.