ばっかじゃないの!

じゃみらー

点が先か線が先か

和辻哲郎の『倫理学』を読み進めている。
読めば読むほどに、どうも根本的な視点に何ら新しいものがないような気がしてきた。
何らかのコミュニティが形成されてしまった後のことを考えてみれば、そこには何らかの人間関係があると言える。
それを云々しようと思ったとき、人というものをベースに考えて、それらの人が人間関係を生み出すと言ってもよいだろう。
そうではなくて、コミュニティというものを考えるのだから、基本となるものは人ではなく人間関係であって、それによって人が規定されるんだと言うことも可能だろう。
前者の「人というものをベースに考え」る思想は、デカルトの「我思う故に我あり」の流れを汲む哲学者の思想である。
正確には「人というもの」でなくて自我らしいが、あまり専門的な用語の使い方は分からんので、ざっくり言って。
後者の考え方は、和辻哲郎が『倫理学』の中で説いている。


確かに倫理学として人間というものを考えようとすれば、デカルト流では足りない。
自我を出発点にその他一切を不確かなものとする立場では、どうしても人間と呼べるもの、すなわち「我」は一人しかいない。
他我を考えたところで、自我と他我とが全くの同一の扱いを受けることはない。
自分が相手を見ているのと同じように相手も自分を見ていることを、認めることができない。
自然を相手にするならば、確かにデカルト流で何ら問題ないだろうが、人ばかりが集まっているような社会を相手にする場合はそれではいけないということ。


この『倫理学』には(まだまだ読んでいる途中だが)「人間関係を基本と考える思想は何ら新しいものでない」と記されていない。
けれど、僕は以前に読んだ本にインドの哲学にはそういうものもあると書いていたことを覚えている。
そこには今のような、人を本質とするか人間関係を本質するかの議論が書かれていたように思う。
さらに、どちらも本質でないという思想もあり、それは単純に人というものや人間関係というものが「あるように見えるだけ」と言う。
これの考え方にも一理ある。
友達という人間関係を例に挙げてみればわかり易いだろう。
全く見たことも話したこともない相手を友達とは呼ばず、仲良く毎日喋り友情がある相手を友達と呼ぶことに何ら疑いはないだろうが、
数回喋ったことのある相手を友達と呼ぶ場合もあればそうでない場合もある。
つまり連続的に友達かそうでないかの関係は続いていて、明らかな線引きができない。
キャベツの葉をめくっていったら全部なくなった、みたいな感じ。
確かに両極端をのみ見ていれば、友達というのは明らかな関係として言えるが、友達関係というのはそれだけではなく、むしろ明らかでないところの方が大部分を占めている。
まぁ僕は一度会ったら友達で、二度会ったら親友で、三度会ったら兄弟だ、四度会ったらもう一心同体?的な感じで生きてますが。


で、何と言うか、僕にとって『倫理学』には少し強引な展開に見えるような書き方が多少ある。
新たなフェイズに行ったっていうのも、後々考えたら、そうでもなくて、単にデカルト的な思想で社会を見なくなったということ。


「社会存在の仕方は実は『論理』ではなくして『倫理』なのである」という一文は、何と言うか腑に落ちる文だった。
今の社会学は果たして倫理を以て社会を研究しているのだろうか、と。
あと「分かる」って言葉の説明が面白いと思った。