ばっかじゃないの!

じゃみらー

考え続けると

漠然と同じことを考え続けると、何が何だか分からなくなる。


たとえば、よしおちゃんが「その考えは思考停止だ」と言ったに対して
「その『その考えは思考停止だ』と結論づけるのは思考停止だ」とトミーが返す場合。
さらにそれに対してよしおちゃんが、“その「その『その考えは思考停止だ』と結論づけるのは思考停止だ」と結論づけるのは思考停止だ”と言い返すことが容易に想像できる。


ここで、分かりやすいように「 X と結論づけるのは思考停止だ」というのを A(X) としよう。
そして A(A(X)) を A2(X) と書き、A(A(A(X))) = A(A2(X)) を A3(X) と書くとしよう。
具体的には、上のたとえにおいて、X とは“その考え”で、
よしおちゃんがはじめに言ったのが A(X) で、
トミーが言い返したのが A2(X)、
そしてそれに返したよしおちゃんの発言が A3(X) となる。
そのような言い合いが、n回繰り返されたときの発言内容 A(A(…A(X)…)) を、An(X)と書くことにする。


こうすることで、僕らはいま何を考えているのか見失わずに済む。
だって何回繰り返されようが単純に n が変わるだけだもの。
つまり、言い合いが重ねられる、その回数を勘定すればよいという話になる。


ところが、そんな便利な記号を持ち出さないでいると、どうなるか。
3回目ですら、“その「その『その考えは思考停止だ』と結論づけるのは思考停止だ」と結論づけるのは思考停止だ”となる。
10回目になったら、確実に何が何だか分からない。
これが本当の思考停止だと思う。
つまり十分大きな n をとれば An(X) は分からなくなる。
(すなわち真偽が問題にならない、命題ではなくなる。)
その“十分大きな”というのが、だいたい10程度である。


漠然と考えると、もう何が何だか分からなくなりやすい。
それは人間の頭がそれほど複雑なことを考えることができないことを示しているように思う。


ところで、こんなことを考えていたら、面白いことが分かった。


抽象的に A(X) を定義したのだけど、そのおかげで A(X) が何だってよいということになる。
もちろん An(X) も何でもよい。
ただ、この抽象化には A(A(X)) というものが存在すればよいので、
A(A(X)) がある程度意味のあるものなら何にでも適応できる。


そして An(X) だけを考えればよろしいということになったのだったが、
これでは一向に「何が何だか分からない」という状態にはならないのである。
記号を用いた方が便利である!という以上に、
また、複雑なことも簡単化して考えられるという結論以外に、
「単純な論理だけでは得られないものがある」ということ。


機械と人間との違いがそんなところに現れていると思うと、なんだか面白いと感じた。