ばっかじゃないの!

じゃみらー

教育論とか

夏の学校4日目の懇親会で、文字通りの野暮な議論をした。
そのとき、だいたい今まで考えてたことが言葉になった。
でもそれを言葉にして理解したときに、よく分からなくなった。


具象から抽象へといくとき、かならず辿れる道がある。
「林檎は果物だし、それはもっと一般に言って、食べ物だ」
これは逆に辿ろうと思えば可能なもの。
「食べ物の中に果物があって、果物のひとつに、林檎というものがある」


果たして、抽象から具体へと辿れないものはあるだろうか。
これが一番の問題点。
上の例を見てすぐだと、そんなものはないだろうと思ってしまうかもしれない。


「常識」とかいう語や「普通」という語はどれくらい具体性を持っているのだろう。
その常識が通用するような母体を持ってくれば、確かに具体的な何らかの常識を示し得る。
僕としては、そんな(ある意味で恣意的な)操作をしてしまうと*1「常識」や「普通」が変容するように思う。
物理における原理(数学における公理?)みたいに、言葉にできない何かを「常識」や「普通」に押し込めてしまうのが、日常会話な気がする。
文科系の人がいう議論っていうのが、どうもその日常会話の延長線上にあるんじゃないかと思っている*2


そんなよく分からないものが、もしもあったとして、果たして意味をなすのか。
社会では、それが意味をなしている(と思われている)ように思うが、どうだろうか。
これは疑問な点。


現状において、教育とか、社会とかそういうのを議論しようと思うと、どうしても上のような問題をはらんでるんじゃないかと考えている。
たとえば、その教育論はどういう子どもを対象としているのか、と考えたとする。
確かに対象となる子どもがいたとして、当然ながら対象外になる子どもも出てくるだろう。
対象から外れた子どもを切り捨てる*3ような教育論ならば、それはきっと教育者には受け入れられない。


全ての子どもに対して同じように論じられる教育論があったとすれば、それはひどく当たり前の論理で成り立っているしかない*4
それを教育論と呼べるかはあやしい。


あいまいな「普通」を厳密に定義してしまえば、確かに理論として成り立つし、何か有意義な定理も導けるかもしれない。
でもその定義から外れた「普通」には一切の言及が意味をなさない。
これは理学的なアプローチだと個人的に感じる。


それに対して曖昧なものは曖昧なまま、ざっくりと扱って、論理だっていそうな言葉の繋がりを結びつけて、何か分かる気がする結論を導く。
これが文科系っぽいすごい人って感じ(すんごい個人的感覚)。


理学的なアプローチは、うさぎと亀のどちらかと訊かれれば、間違いなく亀。
でも、やっぱり亀じゃ見栄えがしないのが、辛いところ。


何が言いたかったか、と言うと、僕も、まだよく分からない。
ただ集合論にもラッセルのパラドックスというのがあるらしい。
このパラドックスの解消法が、やっぱり「そんなものはナンセンスだ」と言っているように思える。
境界面が存在すれば、無いはずのものがあるかもしれない。

*1:論理的に意味のある議論をしようと思えば、否応無くこの操作を迫られる。

*2:かなりバイアスがかかっているので、「文科系」という括りは当てにならないと思うけど

*3:「対象外=切り捨て」とは言い過ぎな気もするけど。

*4:統計学の力を知らない僕だから、こんなことを言っているのかもしれない。