頑張れとか何とか
相手のことを思って発する言葉は尊いと思う。
「相手のことを思って発する言葉は尊い」と思うから、
相手のことを思って発する言葉は卑しい。
「『相手のことを思って発する言葉は尊い』と思うから、
相手のことを思って発する言葉は卑しい」と思うから、
相手のことを思っていても言葉を発しないのは愚かだ。
それでは何も伝わらない*1。
これ以上は何をどう足掻いても、元来の尊い在り方から離れる一方であろう。
出発点が「尊い」ならば、それから離れれば離れるほどに卑しくなるのは当然だろうから。
どうしても「相手のことを思って発する言葉は尊い」に戻ってこなければならない。
これには論理の鎖を断ち切らなければならない。
「だから」とか「でも」とかを飛び越えて、ただただ相手のことを思って言葉を発する。
卑しさも愚かさも内に秘めて、けれどそれらに甘んぜずにいることが尊い*2。
第一義と言うか、ア・プリオリと言うか。
小さい子どもがゴミを拾ってゴミ箱に持っていって褒められた。
何度か繰り返すうちにゴミをゴミ箱に捨てたら褒められると理解していく。
同時にちゃんとゴミをゴミ箱に捨てることは良いことだと認識するようになっていく。
ついには褒められたいがためにゴミを拾うようになったとしよう。
ゴミをポイ捨てした友達を見て、そのゴミをわざわざゴミ箱に捨てに行った。
それを褒めてくれる友達もいたが、ゴミを捨てた友達は「偽善」と言った。
たまたまその子は、そこで「ゴミを捨てるような悪い奴の言うことだ」と無視せずに
真面目に、自分は偽善なのかと考えた。
答えは出ない。
確かに偽善かもしれない。
でも、でも。
そんな感じのことを思いつつ、僕は「頑張ってることは尊い」と言いたい。