ばっかじゃないの!

じゃみらー

意思表明としての何か


そういえば夏に東京に行って電車に乗ったとき、マタニティマークを実際につけているひとを見た。
つけているひとがいるという話は聞いていたけれど、僕自身が遭遇(すごい言われよう)したことがなかった。


そもそもマタニティマークを知らない人のために、どや顔で説明しよう(ドヤッ
マタニティマークとは、おなかに赤ちゃんがいることを周囲の人に知らせて理解を得るために生まれたマークなんだ!
妊娠初期だとおなかも大きくないから外見では分かりにくいからね!
みんなも電車の中でマタニティマークをつけてるひとがいたら席を譲ってあげたりしてね!
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思い出したように書きましたが、実際にふと思い出したので書きました。
ちなみに関連した話に対して僕の考えたことを多少まとめたのがあります。


あと岩波文庫の『老子』を読み直しました。
現代語訳と解説だけですが。
以前に読んだときは気付かなかったことが多々ありました。
大器晩成とか天網恢恢疎にして漏らさずとか、あと何だっけ。
やっぱり『老子』元来の思想としては欲とか効率性を積極的に否定しているんですね。


「議論」というのは、自分をもっと知りたいと思うひとたちがするんじゃないだろうか。
何か具体的な協議として、建設的な指針や計画を見出すような議論についての話ではなくて。
何となく「議論」というものを欲するひとたちは、「議論」を通して自分自身を知りたいと思っているんではなかろうか、という話。


自分の中の曖昧なイメージを言葉にしていく。
その言葉を頼りに誰かがイメージを膨らまし、それを再び言葉で捉えなおして自分に返してくれる。
きっと「議論」を始めたての頃は知らなかった自分がどんどんと出てきて「議論」が楽しくて仕方ないだろう。
それを続けていくと、お互いの考え方ってのがどんなものなのかが分かってくる。
きっと生涯の友になるだろう。
でも、たぶんはある程度の「議論」が為されると、あまり「議論」はなされなくなっていくものだと思う。
自分の考え方がどんなものなのかが分かってきてしまうと、それを核にしてしまうから。
そうなると、「議論」よりも何かを為すために議論を求めるのではないだろうか。


別に「議論」でなくても文章を作ることでもいいだろうとは思う。
一旦は自分の頭の中にあるふわふわしたものを言葉にして頭の外に出して、どっしりしたものに変える。
それからその吐き出されたものをまじまじと眺めて、自分の吐き出したものを観察し、考察する。
これだけでは人からの言葉が入ってこないのでいけない。
ただ、それは誰かの書いた文章を読むことで補える。
偉人と称される人たちの言葉は、そう称されるだけの重みはあるものだから。


ここまでつらつら書いたけれど、何が書きたかったか忘れた。
まぁ議論を求めるようになってからは、専ら意思表明ばかりすることになるんじゃなかろうか。