ばっかじゃないの!

じゃみらー

論理とは

現在、自然科学全般では反証可能性が保証されているものしか相手にしない。
その場合、対象についての論理が正しいかどうかは確かめられるものと想定される。
そこでは大いに議論がなされうるだろう。
前提から論理展開、そして結論──それらの正当性は検証可能であるということ。
やれあの理論はアヤシイところがあるだ、あそこの論理展開は自明でないだの。
いやいや結論が実験と一致しているのだから何かしらのポイントはおさえているのだとか。


ところが自然科学を離れて、もっと一般的な事柄について目を向けてみる。
それらについては全く反証可能性は保証されていない*1
つまりその論理展開が正しいのか確かめられない。
もっと正確に言うならば、何をもって正しいとするかが定かではない。
幸せだとか愛だとか言うものは、まさにそのようなものだろうと思う。
けれど、人はそれらについて持論を展開することがしばしばある。


さて、貴方なら何をもって正しいとするか。


答えは様々あるだろう。
多様であっていいと思うし、むしろそうあるべきだとも思う。


質問を変えよう。
人として社会に生きる上で、何をもって正しいとすべきだろうか。
個人としては多様性があっても何ら問題ないだろう。
けれど個人の集合体である社会として考えた場合、全く個人が好き勝手に自分の正しさを振りかざしていては社会そのものが崩壊しかねない。
社会には何らかの秩序が必要だ*2
そうなったとき、何を正しさの指標にすべきなのか。

以下は僕の考えを述べているので、まだ考えてみたい人は見ないこと推奨。


それはきっと妥当性なのだと思う。
つまり、その論理を説明されたとき「確かにそうだろうな」と納得する人が多くいるということ。
理屈に合っているか。当然か。など色々と言われる。
プラグマティズムとも言うかな。

プラグマティズム (岩波文庫)

プラグマティズム (岩波文庫)


とりあえず個人的には統計力学的な表現で解釈している。
個々の主張は実に様々だが、アンサンブルとして見たとき幾つかの見解はほとんどの主張に見出される。


まぁつまり僕のブログで書かれる論は、読む人にとって当然と思われる(だろう)ことだという話です。
全く詰まらん結論ですね。

*1:僕はそこに「論理」の意味が変質しているのではないかと考えた。自然科学全般に適応される論理というのは、時代にも依らず、場所にも依らないだろう。けれど、幸せやらは場所にも依るし時代にも依るし、さらには幸せを論ずる人自身にも依ってしまう。それにも関わらず自然科学全般で用いるような論理を持ち込むことは「へ理屈」と呼ばれる。

*2:社会が形成された経緯を考えてみれば、秩序が出来たときに社会が形成されたと言うかもしれない。その意味では何らの秩序もなくなったとき、社会としては崩壊していくこともまた止むなしなのかもしれない。