ばっかじゃないの!

じゃみらー

林檎を知っているか

何故かは知らないが哲学者は林檎が好きらしい。
よく「ここに林檎があったとしよう」とか本に出てくる。
何でも良いんだろうが、とりあえず禁断の果実だし青林檎もあるしで便利なんだろう。


ポイント1.
上の「ここに林檎があったとしよう」という話は、林檎という果物を知っている人には通じる話である。
まぁ当たり前の話です。たぶん。
でも林檎を知らない人には、通じないでしょう。
これも当たり前でしょうね。
あ、ここで言う「知らない」というのは「林檎」という言葉から、あのスーパーで128円*1で売っている果物*2を思い浮かべられないことを言うのだと思ってください。
よってこの場合、日本語の「林檎」を知らない(でも多少日本語は分かる)外国人も話が通じない人の部類に入ります。


ポイント2.
ざっくりと「林檎」と言ったところで、それが赤いのか青いのかは定かではない。
青かったら「青林檎」と言うだろうとかいうことではなくて、発言者が大して気にかけていない場合の話。
つまり聞き手も「林檎」という言葉を聞いて、思い浮かべるのは「何となく林檎的なイメージ」であるということ。
「ここに林檎があったとしよう」と言われて、どんな林檎なのかはさておき、とりあえず林檎がここにあるという言葉を受け止められる。
その“さておき”が出来ることがミソになっている。
本当にそこに林檎があった場合、確実に見た目は一通り*3で、赤いか青いかなんてのは見れば分かる*4
言い換えるなら、林檎が実際にある場合、そこに少しも曖昧な点はないということが言いたい。
裏を返せばそこに林檎がないと、曖昧な点が常につきまとうということ。


以上2つのポイントをまとめるとこうなる。
「林檎」を知らない人に、「ここに林檎があったとしよう」という話は通じない。
そこで「林檎」とはどんなものなのかを「赤くて、木に成る果物で、青いものもある。」などと説明してみるが一向に通じない。
あの手この手を尽くして言葉で説明して、やっと「林檎」とはどんなものなのかを理解してもらった。
そのはずだったが、プラムを見せたら「これは林檎だ」と言いやがった。


「それは君の説明が悪かったんだ」とかいう話でない。
例えが「林檎」だったから、あるいはそうだったと言えるかもしれないが、もっと概念的なものの場合はどうだろうか。
つまりそれが「学問」だった場合とか。
「ここに学問があったとしよう」とか言えないけれど、それは話の切り出しとしての表現に問題があるだけで、「学問について」と言ってもいいだろうと思う*5


で、まぁ何が言いたかったかと言うと、その言葉からイメージできるものが違っていると話が通じないということ。
また、その言葉を知らないせいで知っているものでも話が通じない場合があるということ。


# 言いたかったことだけ言っても全く理解されないだろう。
# その理由も上と同じものだろうと僕は思っている。
# ただ、こんな風にストーリー立てて説明したところで納得してもらえこそすれど、理解してもらうことは難しい。
# 理解は自分で色々と思案してもらわないと出来ないように思う。


まだ話は続くけれど、いっぺんに書いてもアレなので明日にする。

*1:特価になると80円くらい

*2:別に、木に成っている赤い林檎でも結構です。何もスーパーで売られている林檎だけが林檎ではありませんから。

*3:時間が経過したり切ったりしたらもちろん変わる。だが何もしないで、まさに今それを見たら、見た目は、その林檎に確定している。

*4:色盲の人の場合は見ても分からんかもしらん。

*5:…ふむ、ということは良い“例えば”ではなかったということか。「ここに愛があったとしよう」とか面白いな。冗談はさておき、「ここに文明があったとしよう」とかどうか。