ばっかじゃないの!

じゃみらー

価値のあるものかどうか

素直に面白いなって思える記事は、文章が背伸びしてない感じ。

「あのさ、ちょっとオモロい話あんねん」って感じで始まって、ただひたすら書いてる人がオモシロがって書いてるとか、「ちゃうねん、これだけ言わせてや」みたいな、どうしても抑えられない衝動に駆られて書き出してしまった感じとか。ツカミはそんな感じ。

なにはなくとも、熱量のある文章。

書いてるひとの思い(とまで言えば大それてるけど、そんなもの)がある文章は「ちょっと読んでみよか」って自然となる。読んでみて面白いかどうかは、内容にもよるし、書き方にもよるけど、まず読もうと思える。素直に読める感じ。そう、ツカミはそんな感じが好き。

商売でやってるんじゃないんだから、わざとキャッチーなタイトルつけてソレっぽく文章を書かなくてもいいじゃないの。とぼくは思ってる。コンテンツとして消費されるだけのためにコンテンツを作ったって疲れるだけじゃない。そういうのは金儲けのためにやってるひとがやればよろしい。そうこ嬢の記事は独特でいい。関係ない。

文章にはヤマも欲しいし、オチも欲しいよね、そりゃさ。でもそんなのなくたっていい。ただひたすら自分の好きなことを好きなように書く。いや、もちろん読んでてすんなり入ってくるようにしないといけないのはアタリマエだよ、だって自分が読みづらいとかやってられないじゃない。ぼくの、ぼくによる、ぼくのための文章。ついでに読者、みたいな。そういう記事は見てて、情報以上の何かがあって、読んでよかったなって思えるわけだ。

日々、雑然とRSSからエンガジェットとかギズモードとかギガジーンとか見てるけど、ほとんど読んでない。そうこ嬢の記事は読んでる。独特だからね、仕方ないよ。まぁだいたいまともに読まずに Pocket か Instapaper に入れたり Twitter に流したり、Tumblrで保存したりしてる。単に情報処理能力を上げるためだけに使ってる感じ。

有名には、すごいことしたか、悪いことしたかで、なるならなりたいもんだ。できればすごいことしてなりたいね。中島みゆきの歌にもあるじゃない、「100年前も100年後も私がいないことでは同じ、同じことなのに生きていたことが帳消しになるかと思えば淋しい」って。関係ないか。関係ないついでに、もう一回書いとくか。もういいか。

こんな感じでたまにはだらだら書いてみた。

 ウェブでほそぼそと発信し続けて、今年で10年になったみたいで、いろんな興味が湧いては消えてを繰り返した。結局は、ほそぼそと続けることもいいなと思えるようになってきている。サーバが死んで、ぼちぼち復旧している。

人との交流は大してないけど、それはウェブではあまり人とのコミュニケーションのツールだと思ってなかったからで、その役割は、かなり昔はIRC、それからmixiのコミュニティや日記、いまはツイッターが担ってる感じ。

これからも、好きなように書いたり、書かなかったりしていきたい。