ばっかじゃないの!

じゃみらー

葛藤が人を強くする?

これは、何かを習得しようとする場合、だいたい何でも当てはまることだと思う。
自分が何をしてるのかよく分からないまま、ただそれをしていたら、そのうち何となく出来るようになっている。
何かの本で読んだけれど、学ぶというのは「まねぶ」ということらしい。
赤ちゃんが見よう見まねで道具を使えるようになっていく感じ。
それが少し抽象的になったものが、模範解答を見ながら自分で解答を作る行為だと思う。


とりあえず、やれば出来るようになる。
この時点では考えるよりも行動する方が成長は早い。
むしろ、こんなところで考えるとロクなことにならない。


でも、このまねぶという作業だけで、いつまでも成長し続けることはできない。
見よう見まねで使えるようになった道具をただ使うことしかできないみたいな感じだろうか。
もちろん、うまく道具を使えるようになることに意味があるのだけれど、それはそれ*1
いま考えたいのは、その先へはどうやって行くかという話。


新しいものを生み出すために必要なのは、ゼロから物を生み出す創造性だろうか。
きっと、そんなことはない。
今あるものをうまいこと組み合わせて、今まで出来なかったことをすること。
それが新しいものなのだと見なされていると思う。


標語的に言えば、組み合わせることで、その効果が足し算でなく掛け算になるものが新しいもの。
きっと質的な変化を伴うんだろう。


何かと何かを組み合わせれば、どんなことが可能になりそうか。
そう考えることで上手くひらめくこともあるだろう。
それも一つの先へ進むためのアプローチになる。
ただ現状では、ひらめいたところで間々それがすでに行われていたりする。
組み合わせと効果を考えるだけなのだから、誰かがすでに考えていてもおかしくないのだから。


もう一つ、僕が考えるアプローチがある。
それは今まで新しいと思われてきたものの、そう思われる所以を探すことだ。
なぜ質的な変化が起こるのかを突き止めれば、同じような変化を起こせるはずだと考える。
言わば、その組み合わせ方をまねぶということ。
さらに抽象的にまねぶ。


どんどんと抽象度を上げていけば、色々な事柄を普遍的に捉えることができるようになる。
まねぶことをまねぶ、とか。


タイトルの「葛藤が人を強くする?」というのは、ただまねぶだけでは人より強くはならないよ、ということ。
ああでもない、こうでもないと悩むこと。
あちらを立てればこちらが立たず、をどうやって乗り越えるか。


でもまぁ、普遍性だけでは現実を乗り切れないのだけど、それはまた別の話。
それは利点ばかりしかないものは嘘でしかないという話でもあるか。

*1:この意味やそれが出来るようになる価値を蔑ろにしちゃいけないと思うので、この記事のカテゴリを[bon sens]にしている。