ばっかじゃないの!

じゃみらー

思い立ったが吉日

一度ストレスに負けて挫けてしまって,再び動き出そうとするときって,自転車を乗るのに似ている.止まっている自転車に乗って漕ぎ出すときに,あまりにペダルが重すぎると前進するより先にこける.ギアを調節すべきだけど,止まってるときにギアは変えられない.

前に進むしかないし,前に進んでいるという実感がないと前に進み続けられない.
以前から続けることは難しかったけど,最近は始めることすら難しくなってきている.

ぼくには予定が必要だ.

20歳頃は「老い」とは緩やかに来るものだと思っていた.
徐々に体力が衰えていったり,病気になりやすくなったりしていくことだと思っていた.
でも最近は,それよりも,状態異常になったらなかなか元に戻らないことの積み重ねのような気がしている.
若さって,転けたときの立ち直りの早さだよねって話.

もっと根源的な価値観があったらしい

さまざまな価値観 - ばっかじゃないの!に書いた価値観の他に,というかもっと原始的なものとして,

すべてを「快・不快」で評価してしまう

という恐ろしいほど動物的な価値観が存在するらしい.(という追記)

さまざまな価値観

最近になって,ひとのもつ価値観はいくつかに大別できるのではないかと考えるようになった.
今のところぼくが認識できている分類には以下の5種類がある.

  1. 独善的
  2. 二元論的
  3. 1次元的
  4. 1+1次元的
  5. 多次元的

それぞれについて具体的に説明する前に,ざっくり言うと,はじめの3つは分裂 (心理学) - Wikipediaのようなもので,残り2つはアンビバレンス - Wikipediaと考えられると思う.
以下ではそれぞれの価値観を理想化しているので,個別の価値判断(その集合体が価値観だとしている)ではふつうは多少ブレるだろうと思う.

独善的価値観と二元論的価値観

これらの価値観は,絶対評価に根ざしていて,他のものと比べることをしない.
ゆえに価値観の分解能が極端に低い.

独善的価値観においては,価値として対となるものがあるという認識がない.
たとえば「よい」と「わるい」が,対であることを認識していない.
つまり「よい」の反対の価値が存在せず,単に「よくない」という否定にしかならず,それが「わるい」かどうかは顧みられない.

二元論的価値観においては,常に対になる価値観を意識しすぎるほどに意識する.
「よい」と「わるい」の例を用いるならば,「よい」の反対が「わるい」になってしまい,今度は「よくない」=「わるい」となる.
このタイプの価値観の持ち主は,基本的に「すき」か「きらい」で判断しがちである(「すきでない」は「きらい」に等しい).

1次元的価値観

上記2つの価値観より,分解能が格段にあがる.
それは他と比較する相対評価になっているからであり,だいたいの大人がこの価値観(あるいは1+1次元的価値観)を持っていると思われる.
やはり「よい」と「わるい」の価値を例に出して考えると,この価値観においては
「よい」「よくない」「わるくない」「わるい」という価値が同列に扱われ,それは「よさ」(もしくは「わるさ」)として1次元的に評価される.
さらに「すごくよい」や「まぁまぁよい」などの「よい」の中にも種類が現れる.

ただし,後述の2つの価値観と異なり,他の評価軸とは完全に連動してしまっているか,完全に分離してしまっている.
つまり「よい」=「すき」だったり,「よい」と「すき」とが関係するかどうか顧みられなかったりする.
(完全に連動している場合は「よい」が何らかの影響で「わるい」に評価が変化した場合,「わるい」=「きらい」となってしまうということ)

1+1次元的価値観(相対主義的価値観)

この価値観は1次元的価値観を自分が持っていることを認識し,他の評価軸との関係を意識したときに,それらの評価軸の関係を積極的に無視する.
「よい」と「きらい」(あるいは「よくない」と「すき」)が同時に混在しうるが,それらの間に「でも」や「だから」といった関係を見ようとしない.

「みんな違ってみんなよい」という言葉に代表されるような,何かしらの評価軸に射影することを積極的に避けるとも言える.

多次元的価値観

これには確かに1+1次元的価値観も含まれるが,敢えて別けた.
それは上述の「何かしらの評価軸に射影する」ということを行うか否かで決定的に異なると思うため.
今までの例えに沿って言うならば,態度や行動それぞれにおいて「よさ」という評価軸に沿って評価し,さらに「すききらい」という評価軸によっても評価し,それらを合わせて総合的な「よさ」として評価する,ということである.

多次元的評価は,思った以上にブレやすくて難しいものだと思う.
今のところ,これよりも複雑な構造を持った価値観は知らない(認識できていない).

vim で特定のファイルタイプを編集しているときだけ TAB を半角スペースに変換しないようにする

基本的に vim で編集するときはインデントに半角スペースを使っています.
それはを押すと自動で4つの半角スペースに変換されるように ~/.vimrc に書いてあるからなんですが,最近まで TeXvim で書いていなくてのまま使っていました.
で,基本的に

set expandtab

だけど,tex ファイルの場合だけ

set noexpandtab

という設定にしたい場合はどうすりゃいいのか分からなかったので調べてみました.

set expandtab
let _curfiletype=expand("%:e")
if _curfiletype == 'tex'
set noexpandtab
endif

expand については http://nanasi.jp/articles/code/io/file-path.html ,また雛形は http://qiita.com/Lacty/items/23a89d2b999cb0e9fae1 参考にさせていただきました.

ご無沙汰しておりました。

いろいろと目処が立ってきて(たぶん)、だいぶとメンタルが持ち直してきたので、そろそろブログを頑張りたいと思います。

 

という決意表明。

当たり前だったんだけど、間違ってたのかもしれない。

ずっと、悩むことがいいことだと思ってたんだけど、間違いなのかもしれない。いや、悩まないで選んだ失敗より、悩んで選んだ失敗の方がまだマシだとは思う。でも、悩まずに選んだ成功なら、悩んで選んだ失敗よりはマシなんだと思うんだ。当たり前なんだけどさ。

大前提には成功することがあった。もう少し平たく言って、うまくいくことを目指していた。それなしにいくら悩んでも仕方がない。悩むために悩んだところで出口のない迷路に入ったようなもので、そこから抜け出すためには入り口に戻ってくることしかない。つまり悩むことを止めるということしかない。どうしたって前には進めないし、うまくいきっこないのである。うまくいっていない人のなかにも、悩みに悩みすぎて前に進もうとする気持ちを忘れている人がいるのではないだろうか。悩みながらも足掻くことを忘れてはいけない。

本当に当たり前で、ぼく自身はそれを忘れていたわけじゃないんだけど、一般論として、人の生き方として思っていた理想論みたいなものに、欠落していたように思う。抽象化するときにうっかり落っことしてしまったみたいな感じだろうか。

最近読んだ本(ブックオフで108円で買った)に、「まぁ世の中そんなにシンプルな問題なんてないんだから、考えられる限りの原因を探してみて、お手軽さなものはチャッチャとやっつけちゃって、それでも解決しないようなら、じっくり取り組んできゃ良いんだよ」みたいなことを書いてあった。

そういえば、アジカンを最近は聴いてるんですが、なんていうかソラニンが気分的に合っててよいです。「たとえば、ゆるい幸せがだらっと続いたとする。きっと悪い種が芽を出して、もうさよならなんだ」と思うと、これで良かったんだって思うわけです。「どこかで元気でやれよ。ぼくもどうにかやるさ。」って感じです。さよなら。

もしもそれがすっかりなくなってしまったとして

ふと思ったことがある。たとえば、好きな俳優がいたとして、その俳優の鼻がもう少しだけ低くても、その俳優を好きなのだろうか、と。「なんだ、鼻が少し低かろうと、好きに違いない!」と思うかもしれない。じゃあ、さらに口がもう少しだけ野暮ったかったら?眉毛がもうちょっと薄かったら?…なんていう具合に、ちょっとずつその俳優から離れていったとして、好きな俳優は好きでもない俳優になるのだろうか、と。たぶんきっと、いずれは好きでもない俳優になると思うのだけれど、それはいつ変わるのだろうか。

その好きの本質がはっきり定まったものに対してなら、きっとそれは明確な境目を持つ。好きの好きたる所以があって、それが好きたらしめているのだから、それがなくなってしまえば、好きでなくなる。

でも、そんなにはっきりと、本質がそれ以外と別れていることがあるのだろうか。

ひとは(というかひとに限らないようだけど)ゆるやかな変化に対して鈍感だ。ぬるま湯に手を入れたまま徐々にお湯を熱していったときに感じる苦痛と、それと同じ温度の熱湯に手を入れる苦痛は等しくないという話に通じるところがありそう(そういえば、茹でガエルの実験は似非科学みたいですね、まぁそりゃ生死がかかっているのに死ぬまで気づかないってのはおかしいですよね)。と思ったけど、あんまり関係ないかな。

もしかすると、もしもそれがすっかりなくなってしまったとして、それでも残るものがあるなら、それがそのひとの本質なのかもしれないと、なんとなく思ったのでした。