ばっかじゃないの!

じゃみらー

一日一ラーメンズ

最近、Youtubeにあるラーメンズのコントを一日にひとつずつ見ていくという日課を作っている。

ラーメンズとの出会いは、たぶん大学の学部で友達になったニュージーランドからの留学生で、彼が日本語の勉強に使ったと言って見せてくれたYoutubeの動画だったと思う。

それから間をあけて、MacのCMをやってたりしたので何回か見た記憶がある。テレビに出るより舞台に出る方が良いっていうタイプらしいので、知らないひとには全く知られていない芸人なんじゃないか。でもハマったひとにはグイグイきて、研究室の先輩がすごく好きだったみたいで、ポスターを貼っていたのを覚えている。

お笑いコントなんだけど、作品なんだと思う。

週に1つくらいは書きたいなと思う

三月をあまりにも慌ただしく過ごしすぎたせいか、ちょっと心が折れたまま戻らないでいる。困った。スイッチがオフになったままみたいな感じ。もちろん周囲はそんなことをお構いなしに進んでいくので、これまた困った。思いのほか気分は軽いままで、たぶんフットワークも軽いままなんだろうけど、初めの一歩が恐ろしく重い。重いというか、初めの一歩の出し方を忘れている。なんていうか腹筋がぷにぷに。歯を食いしばれない。ダメダメ。「あの感覚」が戻ってこない感じ。

一日をていねいに生きて、その一日の繰り返しで一週間を、そして一ヶ月を作っていきたい。そのサイクルに何かここに書くことも含められたら良いなと思っている。頭のたいそうとして、週に1つくらいを目標に。

なんていうか、やっぱり、言葉にすることで、かたちになるんだなと思う。いい言葉を吐き出していきたい、出来るだけ。

ダメな生活のなかで、映画はオブリビオンとかエンジェルウォーズとかを見た。アニメはガッチャマンクラウズとか夜のヤッターマンとか翠星のガルガンティアとか、キンダニRとか。シャーロックのシーズン3も見た。相変わらず色んなものを見てるけど、作品と呼ばれるものが好きなんだと思う。イギリス英語は雰囲気が好きだ。あの独特さ。

「何かについて考える」ということ

「何かについて考える」ということについて.ここで言う「考える」という行為は,単純にその「何か」のことを想像することとは異なり,論理的に思考するという意味で言っている.たとえば,自由形式で正答のない問題について対策を練るときなどを想定している.

訓練されたひとと,そうでないひととでは「何かについて考える」という行為において,初めの一手から違うものだ.これは即ち論理的思考の何たるかを知るか知らざるかの違いとも言える.

訓練されていないひとは,無意識的に「何か」を別のものに置き換えて考えてしまう.心理学ではヒューリスティックと呼ばれているものだと思うが,それを意識的にではなく,無意識的に用いる.訓練されたひとは,考えたい「何か」を中心におくことを忘れず,ヒューリスティックすら意図的に用いる.

例えば,青臭く幸せについて考えたとして,まず「幸せとは何か」は非常に難しい問いで,一般的な答えはなかろうから,自身の経験からヒントを得ようとする.訓練されたひとは,ヒントを探しに過去を振り返る.一方で,訓練されていないひとは,答えを探しに過去を振り返る.「どんなときに幸せと感じるか」という問いに答えを得られたとして,そこから得られるものは「どんなときに自分が幸せと感じるか」でしかない.それでは当初の問いの答えにはならないのだが,訓練されていないと,ついつい「幸せとは何か」の答えを「どんなときに自分が幸せと感じるか」の答えで代用してしまう.

クリティカル・シンキングやブレイン・ストーミングなど,色々と持て囃された訓練もあるが,基本的には問いを定めることと,その問いの答えを探す手段を定めること,そしてその定めた手段に則って答えを導き出すことが,論理的思考だと言えるだろう.その訓練をされていないと,問いを勝手に置き換えてしまいがちだ.

ただ漠然と「何かについて考える」とき,それではきっと答えは得られないし,得られた(と感じた)としても,それはきっと当初の問いとは異なる問いの答えになっているだろう.

あるもの・ないもの・おもいのまま

本屋をふらふらしていたら,写真のコーナーに3Dレンダリングに関する本があったので,手にとってパラパラ眺めてみた.

レンダリング (rendering) は、データ記述言語データ構造で記述された抽象的で高次の情報から、コンピュータプログラムを用いて画像映像音声などを生成することをいう。元となる情報には、物体の形状、物体を捉える視点、物体表面の質感(テクスチャマッピングに関する情報)、光源シェーディングなどが含まれる。render の原義は「表現する、翻訳する、(脚本などを)上演する」などの意味。レンダリング (コンピュータ) - Wikipedia

最近の(というか,もうかなり前から)3Dレンダリング技術は本当にすごくて,写真と区別ができなくなってきている.静物画とかもう完全に写真と区別できないし,人間だって相当に精細に表現できるようになっている.何ならそれを自然に動かすことだってできるようになってきている.(簡単にその凄さを体験したかったら MikuMikuDance とかでググると良いよ)

3Dレンダリングというのは,世界に対する一つのアプローチとして見ることができると思った.写真を撮ることも,やはり一つのアプローチと見なすことができるだろう.ただ,写真はレンダリングとは真逆のアプローチのように思う.「世界」と書いたけれど,それは“見ることのできるものすべて”という意味.「世界へのアプローチ」をもう少し言い換えると,3Dレンダリングのそれは“世界をどうつくり上げるか”で,写真のそれは“世界をどう切り取るか”となるだろう.0 から構築するものと,1 から削っていくものと.あるいは,能動的に世界を構成するか,受動的に構成するかの違いと言っていいかもしれない.

3Dレンダリングと写真撮影は,両極端からのアプローチだが,より3Dレンダリングに近いものとして,撮った写真を加工するというものがある.これも世界への一つのアプローチだろう.見たままありのままをどう切り取るかだけでは,やはり限界がある.それは撮影機材の限界であることが往々にしてある.明るさが足りなかったり,青みがかったり白飛びしたりする.それは光量や偏光の問題で,PLやUVカットやNDなどのフィルターを用いて対処できたりする.そういうものを予め想定して撮影して,あとから補正して求めていた写真に仕上げることができる.ただ,これは「撮ったものをより見たもの(あるいは見せたいもの)に近づけるか」というもので,世界に対するアプローチは,写真撮影よりは幾分か能動的になったが,まだ元のスタイルは「世界をどう切り取るか」に根ざしているようにぼくには思える.

もう少し3Dレンダリングに近づいた,より積極的なアプローチもある.「見えた世界をどう切り取るか」というスタンスでは本質的に表現が限定されるのだ.昨今は Photoshop などのソフトを使えば,“不要な”電柱だったり人だったりをピンポイントで消し去ってしまうことができる.重要なことは,改変はフレーミング(写真の構図を決める)とは異なる行為で,切り取った枠内から“不要な”ものを消し去ることは,露出の補正やコントラストの調整とは本質的に異なることだと言える.

人それぞれ,好みのスタンスで世界へアプローチすればよいわけだけど,能動性受動性の違いとして見ることができれば,自分のスタンスがより明確になるかもしれない.

お説教してしまう人間の気持ちが少し分かった気がする

もちろん堅苦しい教訓をたれるという意味でのお説教で、さらに言うと、ぼくはそういう人になりたくない。だから以後、気をつけようと思う。

細かいことを書く気にはなれないので、大雑把に書くと、相手は、まだまだこれからどうにでもなるような、しかし明らかに相手の認識は甘いように見えた。それではいけないのだと、どうしても言いたくなってしまった。相手も、僕が言いたかったことは分かっているだろうし、ぼくから言われる筋合いもないとも思っているらしかった。できてない人間に、できるようになれと言われても、素直に「はい」と言えないものだ。相手に要求するなら、まず自分がそれに応えられるようになって然るべきだとは思うので、精進したい。

話が逸れた。どういう気持ちでお説教してしまうのかについて。大きく別けて二つあるように思う。

ひとつは、はじめに書いたように「認識の甘さが目に余る」ということだった。確かに本人も“それ”について認識してはいるようであった。だからこそ、ぼくの言うことがお説教になってしまったんだと思う。けれど、その認識が甘いからこそ、どうしても言いたくなったということだ。何度も言っていてたせいで自分で気付いたが「本当に」とか「もっと」とか繰り返していた。その度合いが、結局は相手に通じていなかったように思う。

もうひとつは「その認識の甘さが命取りになると気付いていない様子だったから」だ。どうにでもなる立場にいるからこそ、伸びしろを残したまま消えてしまう可能性もあるわけだ。これも、認識の甘さを改めない限りは、結局は通じないのだろうと思う。悉く成果でしか評価されない場所で「頑張ったけどダメでした」は無価値で、それを繰り返すことで評価が下がって相手にされなくなるので、ひとつひとつを大切にすべきなのだが。

付け加えるなら、自分の身近にいる人間がそうなるのを見過ごすのは、自分にとってもマイナスになるので、気付いたことは言っておきたかった、というのもある。

最後にこれを書いてしまうと、元も子もなくなるのだけど、お説教してしまう人間の気持ちを、お説教してしまう人間から聞いたことがないので、本当のところはどうか分からない。

ご無沙汰

9月は、月初めに某理学会があり、その次の週には研究室の合宿で、気が付けばもう月の中頃という時間の流れが早いこと早いこと。

以前からやろうと思っていたことを、合宿から帰ってきてから2週間以上、ほとんど毎日実行しております。朝に1時間ほど運動して、シャワー浴びて朝食を食べて12時間以上研究室にいるという…昨日も一昨日も寝るのが遅くて朝が起きれなかったのでアレですが…明日こそは…(良くない流れ

以下、色々と分かった些細な自分の性質。

  1. 最低6時間は睡眠が必要ぽい
  2. ちゃんとご飯を噛んで食べると食後の満腹感の到来が早いし消化も良い
  3. 聴いてる音楽によって気分がものすごく左右される
  4. 夜更かししないとそんなに物淋しさは感じない

あと、誰にでも言えることだと思うけど、作業時間が確定すると、1日で自分が出来る量はどれくらいかをある程度正確に見積もれるようになる。生活が乱れていたころの自分は、無茶をすればどこまでも出来るような気がしていた。何十時間も同じ能率でやり続けることは無理な話なので、どうしても一度、休息してリセットする必要がある。裏を返せば、リセットせずに無茶をすると、ある程度作業時間が長くなるとかけた時間に反比例して能率が落ちていくわけだが、そのことをあまりよく理解していなかった。というか身をもって体験していなかった。こんなに長期間、作業時間を固定させることをこれまで一度もしたことがなかったので。

あと、朝に運動しているので、体力がついて、長時間作業しても能率の低下があまり起こらなくなってきたということもある。

8月32日の日記

元々にちゃんねるに貼られたネタだったと思うけど、これがすごく良い喩えだと思うので、敢えて貼りたい。ググればそこここにコピペされているネタなんだけど。

ある大学でこんな授業があった。

「クイズの時間だ」教授はそう言って大きな壺をとり出し、教壇に置いた。

その壺に、彼は一つひとつ石を詰めた。

壺がいっぱいになるまで石を詰めて 彼は学生に聞いた。

「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。

「本当に?」といいながら、教授は教壇の下からバケツいっぱいの砂利を取り出した。

そして、砂利を壺の中に流し込み、壺を揺らしながら、石と石の間を砂利で埋めてゆく。

そうしてもう一度聞いた「この壺は満杯か?」学生は答えられない。

ひとりの学生が「多分違うだろう」と答えた。

教授は「そうだ!」と笑い、今度は教壇の下から砂の入ったバケツをとり出し、

それを石と砂利の隙間に流し込んだ後 3度目の質問を投げ掛けた。

「この壺はこれでいっぱいになったのか?」

学生は声をそろえて「いいえ」と答えた。

教授は水差しをとり出し、壺のふちまでなみなみと水を注いだ。

「僕が何を言いたいか、わかるだろう?」

ひとりの学生が手を上げた。

「どんなにスケジュールが忙しい時でも、最大限の努力をすれば、

 いつも予定を詰め込むことが可能ということです」

「それは違う」と教授

「重要なポイントはそこにはないんだよ。

 この例が私たちに示してくれている真実は、

 大きな石を先に入れない限り、

 それが入る余地は、そのあと二度とないということだ」

「私たちの人生にとって、大きな石とはなんだろうか?」

「それは仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、

 家族であったり、自分の夢であったり。

 ここで言う大きな石とは君たちにとって一番大切なものだ。

 それを最初に壺の中に入れなさい。

 さもないと君たちは、それを永遠に失うことになる。

 もし君たちが小さな砂利や砂、

 つまり自分にとって重要度の低いものから自分の壺を満たしたならば、

 君たちの人生は重要でない何かで満たされたものになるだろう。

 そして大きな石、つまり自分にとって一番大切なものにさく時間を失い、

 その結果、それ自体を失うだろう」

この喩えに、さらに時間という概念を導入してみると、もっと深みが増すように思う。
時間経過は物事の変化で捉えようと思う。
つまりは大きな石が砕けてしまうこともあるし、小さな砂利が徐々に大きな石に変わっていくこともあるんじゃなかろうか。
たとえば仕事を失ったり、夢やぶれたり、愛するひとや家族を失ったり。
逆に、友達だったひとが大切なひとに変わっていったり、家族が増えたり、就職したり。

その壷に入ってたはずの大きな石が突然なくなっても、残念ながら、すぐにはその穴は埋まらない。
いままであった石のカタチに添うように、他の砂利や砂がこり固まっている。
他の大きな石を持ってきて埋めようにもカタチが合わない。
なんとなく「心にぽっかり穴があいた」みたいな感じがそんな場合を言うように思う。

時間をかけて、つまりは他の砂利や砂が徐々に動いていくなかで、何か代わりになる大きな石を見つけるか、砂利を大きくしていくか。

ただ、忙しさは、壷に大きな空白があることを忘れさせてくれる。