ばっかじゃないの!

じゃみらー

もしもそれがすっかりなくなってしまったとして

ふと思ったことがある。たとえば、好きな俳優がいたとして、その俳優の鼻がもう少しだけ低くても、その俳優を好きなのだろうか、と。「なんだ、鼻が少し低かろうと、好きに違いない!」と思うかもしれない。じゃあ、さらに口がもう少しだけ野暮ったかったら?眉毛がもうちょっと薄かったら?…なんていう具合に、ちょっとずつその俳優から離れていったとして、好きな俳優は好きでもない俳優になるのだろうか、と。たぶんきっと、いずれは好きでもない俳優になると思うのだけれど、それはいつ変わるのだろうか。

その好きの本質がはっきり定まったものに対してなら、きっとそれは明確な境目を持つ。好きの好きたる所以があって、それが好きたらしめているのだから、それがなくなってしまえば、好きでなくなる。

でも、そんなにはっきりと、本質がそれ以外と別れていることがあるのだろうか。

ひとは(というかひとに限らないようだけど)ゆるやかな変化に対して鈍感だ。ぬるま湯に手を入れたまま徐々にお湯を熱していったときに感じる苦痛と、それと同じ温度の熱湯に手を入れる苦痛は等しくないという話に通じるところがありそう(そういえば、茹でガエルの実験は似非科学みたいですね、まぁそりゃ生死がかかっているのに死ぬまで気づかないってのはおかしいですよね)。と思ったけど、あんまり関係ないかな。

もしかすると、もしもそれがすっかりなくなってしまったとして、それでも残るものがあるなら、それがそのひとの本質なのかもしれないと、なんとなく思ったのでした。