ばっかじゃないの!

じゃみらー

私の教育論

教育とは、思考の仕方を身に付けさせることだと私は考えている。つまり、よい教育とは、よい思考の仕方を身に付けさせるということだ。思考の仕方を別の言で表すならば、何らかのインプットに対するアウトプットの幅を規定することと言えるだろう。もう少し具体的には、何かの目的を定めたときに、いかにしてその目的を達成するかという選択肢を規定すること、また目的達成の過程において起きる想定外の事態に対しての対応を規定し、そして目的達成の反復によって目的自体を規定することである。

教育には訓練によく似た側面があると言われるが、それは訓練が教育に包含されるからだと私は考えている。訓練では目的が予め定められており、その目的を遂行できるようになることが訓練だからである。教育とは、そのような様々な訓練の集積によって達成可能な目的を独自に定め、達成できる力を身に付けさせることだ。

現在の自分に達成可能で、かつ有益な成果をもたらす可能性が最も高い目的を「適切な目的」と呼ぶことにするならば、幼いころに上述の教育を受け、無意識的にでもそのような適切な目的を設定することができたならば、その教育はよい教育と呼べる。

よくない教育では、ケーススタディは往々にして一過性の繰り返しに終始し、その応用可能性を身に付けさせられずに終わる。たとえば「歴史は繰り返す」という言葉は過去の事例にのみ適用できるわけでないことを学ばせることが、歴史教育の一つの大きな役割だと私は思う。他にも、何らかの選択時にその選択肢の幅を広げさせることなどがあるだろうが、ここでは踏み込まない。
算数や数学の教育では、ものともののつながりを学び、何が分からないのか、あるいは何を分からなければならないのかを自問できるようになること、それに答えられるようになることが一つの役割だと言えよう。これは目的達成の選択肢の良し悪しを規定し、ひいては適切な目的の設定を可能とする。教育されていない人間にとって「分からないもの」はどう転んでも分からないものでしかないが、「分からないものを分かったと思ってみろ」という算数の教えを受けた人間は、未知数というもので「分からないもの」を分からないなりに扱うことができる。分かっていることと分からないものとの関係を頼りに、分からないものを規定し、あるいは完全に規定することができたなら、それはすっかり分かったことだと言える。数学において、分かったものと分からないものとの境目はより明確になり、ものとものの関係性がより純化される。
国語の教育については、もう少し抽象的に表現したほうが分かりやすいかもしれない。つまり、前述の「インプット」と「アウトプット」の表現を規定することが言語であり、アウトプットがまたインプットたりえることから、アウトプットを適切な目的のために最適化することで、また最適なインプットを得ることが可能となる。これは個人レベルにとどまらず、他人とのコミュニケーションにおいても適切な目的の達成に効果的である。

第一段階の教育において最も重要な意義は、目的達成の選択肢の幅を広げさせることと、その中から適切な選択肢を見つけ出せるようになることにある。よい教育とは、ある程度それを無意識的にできるようにさせることだと私は考えている。さらに付け加えるならば、意識すれば可能な選択肢を列挙することができ、その良し悪しを判断できるようにさせることだろう。第二段階の教育においては、目的自体の設定を、意識すれば現在の自分に達成可能かどうか、より適切な目的はないかの判定ができるようにさせることが重要だと言える。

無意識的に選択していく行為を「思考」と呼ぶのなら、教育とは思考の仕方を身に付けさせることだという主張を理解されよう。ときに意識的に精査することも含めて「思考」と呼ぶなら、なおのことだろう。

最もよく教育されたものは、何を面白いと感じ、何を思考するかが、合目的的なのであろう。すなわち、方向性に無駄が少なく明解で、その方向にむけて邁進し、ときに自省し方向修正しながら生きていくのだろう。

よい教育は、当人にはそれを学びと感じさせる。つまり、自分のちからでそれを身に付けたと思わせる。だがしかし多分にして教育の賜物である。そのことを、よい教育を受けた人間が自覚したとき、そこで初めてそのひとの価値が問われるのだと私は思うのだが、それはまた別の機会に記そうと思う。