ばっかじゃないの!

じゃみらー

「何かについて考える」ということ

「何かについて考える」ということについて.ここで言う「考える」という行為は,単純にその「何か」のことを想像することとは異なり,論理的に思考するという意味で言っている.たとえば,自由形式で正答のない問題について対策を練るときなどを想定している.

訓練されたひとと,そうでないひととでは「何かについて考える」という行為において,初めの一手から違うものだ.これは即ち論理的思考の何たるかを知るか知らざるかの違いとも言える.

訓練されていないひとは,無意識的に「何か」を別のものに置き換えて考えてしまう.心理学ではヒューリスティックと呼ばれているものだと思うが,それを意識的にではなく,無意識的に用いる.訓練されたひとは,考えたい「何か」を中心におくことを忘れず,ヒューリスティックすら意図的に用いる.

例えば,青臭く幸せについて考えたとして,まず「幸せとは何か」は非常に難しい問いで,一般的な答えはなかろうから,自身の経験からヒントを得ようとする.訓練されたひとは,ヒントを探しに過去を振り返る.一方で,訓練されていないひとは,答えを探しに過去を振り返る.「どんなときに幸せと感じるか」という問いに答えを得られたとして,そこから得られるものは「どんなときに自分が幸せと感じるか」でしかない.それでは当初の問いの答えにはならないのだが,訓練されていないと,ついつい「幸せとは何か」の答えを「どんなときに自分が幸せと感じるか」の答えで代用してしまう.

クリティカル・シンキングやブレイン・ストーミングなど,色々と持て囃された訓練もあるが,基本的には問いを定めることと,その問いの答えを探す手段を定めること,そしてその定めた手段に則って答えを導き出すことが,論理的思考だと言えるだろう.その訓練をされていないと,問いを勝手に置き換えてしまいがちだ.

ただ漠然と「何かについて考える」とき,それではきっと答えは得られないし,得られた(と感じた)としても,それはきっと当初の問いとは異なる問いの答えになっているだろう.