ばっかじゃないの!

じゃみらー

お説教してしまう人間の気持ちが少し分かった気がする

もちろん堅苦しい教訓をたれるという意味でのお説教で、さらに言うと、ぼくはそういう人になりたくない。だから以後、気をつけようと思う。

細かいことを書く気にはなれないので、大雑把に書くと、相手は、まだまだこれからどうにでもなるような、しかし明らかに相手の認識は甘いように見えた。それではいけないのだと、どうしても言いたくなってしまった。相手も、僕が言いたかったことは分かっているだろうし、ぼくから言われる筋合いもないとも思っているらしかった。できてない人間に、できるようになれと言われても、素直に「はい」と言えないものだ。相手に要求するなら、まず自分がそれに応えられるようになって然るべきだとは思うので、精進したい。

話が逸れた。どういう気持ちでお説教してしまうのかについて。大きく別けて二つあるように思う。

ひとつは、はじめに書いたように「認識の甘さが目に余る」ということだった。確かに本人も“それ”について認識してはいるようであった。だからこそ、ぼくの言うことがお説教になってしまったんだと思う。けれど、その認識が甘いからこそ、どうしても言いたくなったということだ。何度も言っていてたせいで自分で気付いたが「本当に」とか「もっと」とか繰り返していた。その度合いが、結局は相手に通じていなかったように思う。

もうひとつは「その認識の甘さが命取りになると気付いていない様子だったから」だ。どうにでもなる立場にいるからこそ、伸びしろを残したまま消えてしまう可能性もあるわけだ。これも、認識の甘さを改めない限りは、結局は通じないのだろうと思う。悉く成果でしか評価されない場所で「頑張ったけどダメでした」は無価値で、それを繰り返すことで評価が下がって相手にされなくなるので、ひとつひとつを大切にすべきなのだが。

付け加えるなら、自分の身近にいる人間がそうなるのを見過ごすのは、自分にとってもマイナスになるので、気付いたことは言っておきたかった、というのもある。

最後にこれを書いてしまうと、元も子もなくなるのだけど、お説教してしまう人間の気持ちを、お説教してしまう人間から聞いたことがないので、本当のところはどうか分からない。