ばっかじゃないの!

じゃみらー

だいたい意見でしかない

自分の欠けていた点が明確に分かったので,以下にまとめておく.
(おぼろげながら理解はしていたけど,改善策が分かってなかった)


このブログに書かれているのは,だいたいが意見なんだね.
事実を基礎に,そこから意見を引き出している(と僕は思っていた)けれど,
その「事実」の信憑性はあまり検証してこなかった.
つまり「それ,ホントにそうなの?」って言われたときに,
相手を説得できるだけのデータや法律を示せていない.
(懐疑的な相手を説得できる事実たり得るものは
1. 科学的なデータか
2. 法律かしかない
と個人的には思っている.あくまで相手が懐疑的な場合.
というか科学者としてはそれ以外は認めないはず.)


もう少しはっきりと書くと,“意見”ばかりで客観的な“事実”に乏しい.
事実っぽく書いているところも,ほとんど裏付けがなされていない.
だから「その事実っぽく言ってることって,本当に事実なの?」と言われたとき,
うまく相手を納得できず,前提である事実(っぽいこと)に同意されず,
つまりはその事実(っぽいこと)から引き出された意見にも同意されない.
こういうことが過去に何度かあった.


好意的な相手には,事実っぽいことは事実(っぽいこと)として受け入れられて,
意見の交換ができているように思う.
そこでは,前提が未検証なのに意見として認めていいのかという問題が常にあるわけだけど.


理系のひとは「それが事実なのか」にこだわる.
そうすることが理系たり得る必要条件だと言っても過言ではない(気がする).
文系のひとは「それが事実なのか」を自分の認識を元に判断するんじゃなかろうか.
つまり科学的なデータにも‘まだ今現在’なっていないし法律にも‘まだ今現在’規定されていないようなものでも
自分が事実と考えるかどうかで判断しているように思う.


言うなれば,文系のひとは現象論的な議論をしている.
何らかの仮定から出発して,ある結論を導きだして,その結論が仮定と矛盾しなければ,
とりあえず論理としては正しいし,実際にそれで説明できればよしとする.
ポイントはその仮定が正しい(真である)のかどうかは不問にしている点.
それに対して理系のひとは,その仮定が本当に起こりえるのかにまで十分に吟味する.
仮定が偽であると判断されれば,いくら結論がもっともらしくても,それは間違い.
その判断基準が実に厳格に決まっていて,自分の認識なんてアヤフヤなものに頼らない.
再現性のある実験結果や,法律などのルールは,少なくとも自分がどう認識していようが,変わらない.
*1
判断基準が明確であればあるほど,その判断の正確性は増すのだろうし.


相手を説得させたかったら根拠を出せ,というお話.
つまり一つ歩を進めて,意見を言いたかったら根拠は常に持っておけ,というお話.
好意的なひとばかりではないのだから.




ちなみに,理系のひとの議論の仕方の問題点は,まさに判断基準の厳格さにあると思う.
厳しすぎると,ほとんど議論にならない.
示せることがかなり制限される.

*1:細かいことを言えば,実験結果や法律にもブレはあるけど