ばっかじゃないの!

じゃみらー

マシンガンをぶっ放せ!

閉塞感

ぼくのなかにあるもの.ぼくのまわりに漂うもの.最近は,以前に比べればかなり薄れてきているとは思うけれど,やはりまだ何をするにでも付き纏っている.自分が面白いことだけやっていればいいんだと,どうしても思えない.それが何かに繋がらなければ意味が無いと感じてしまう.面白いことを面白いと感じることが出来るようになって,それに向き合えるだけの気力が戻ってきている.いつぞやに,たまたま会った友達に「物理の話をしているときのお前は眼が輝いてる」と言われた.そのときの自分には,それが意外に感じられて,今でも記憶に残っている *1

この「何かに繋がることで意味が見いだされる」というのをどう捉えるか.

一つは何かに繋がることが目に見えている場合,それはすでに,その「何か」に繋がるという意味を持っている.やる価値があるのは明らかだ.しかし,ぼくがやっている基礎的な物理は,そんなに安直に応用に結びつかない.応用までの道のりが長く,不確定要素も多い.ここが悩ましい.正確には,悩ましかった,という過去形だが,正直,今でも少し悩ましい.これが閉塞感に繋がっているように思う.

自然科学のたどった道筋は,主に金持ちの享楽としての科学研究から,産業の奴隷としての科学研究,そしてその反省なのだと理解している.ガリヴァー旅行記で批判されているように,科学のための科学に大金をつぎ込むことは浪費でしかないとぼくも思う.しかし,一見すると無駄のように見える事象が結びつくことで,驚くべき発見に繋がることもあり,それが延いては社会の進歩へと繋がる.この無駄(と見えるもの)にどれだけ労を割くか,その割合が難しい.ただ少なくとも,そういう無駄(に見えるもの)一切合切に目を配る必要が無いわけでない.つまり,そういう無駄(かもしれないもの)をやるひとがいてもよいのだろうと,いまのぼくは考えている.こう考えることで,自分のやることに幾分かは前向きになれたのだった.

以上を整理してみると,結局,やっぱり,詰まるところ,次に出てくる言葉は「マシンガンをぶっ放せ!」になるんだと思う.閉塞感を打ち破る魔法の言葉.

悩んでいても仕方がない.無駄かもしれないものを,無駄にしないように,少しでも多くやるしかない.まだ不確実な未来のことを考えるから,閉塞感に囚われてしまうのだと僕は思っている.意味も価値も,自分で作り出してしまえば良いんだよ.小手先ではなく.

結局,原点回帰した.

*1:ちなみにその友達は,そんなぼくにちょっと引いていた.