ばっかじゃないの!

じゃみらー

じぶんのあたまでかんがえるとは

意志がない人間はつまらない.

でも,自分では自分自身に意志がないことに気付けないようで,もし他人に指摘されるなどで意識するようになったとしても,それが何なのか分からないみたい.当たり前と言えば当たり前で,それが何なのか分かっていたら,自分にあるかないかくらい判断できてしまうのだから.

さて,自分はどうか.

「君には自分の意志が欠けているみたいだね」と言われて,どうすればそれが確かめられるのか.そんなことを言われてしまったら,僕なら少し動揺してしまう.そんなはずはない!と思ってみても,やっぱり少し動揺すると思う.

動揺しないのなら,それは自分に意志がないからだろう.意志の重要さを認識していない.意志がないということは,そこらへんの動物と同じなのだ.それくらい厳しい言葉なのだと思う.もちろん,あるいは自分にそんな厳しい言葉を投げかけてきた人間を相手にしていなかったから,動揺しない!ということもあるかもしれないが.

もう少し意味のある判断基準を探すべきだろう.

上の判断基準は,“意志がない”ことを示せるだけで,自分に“意志がある”ことを示せはしない.より判断基準と呼ぶに相応しいものを見いだすべきだ.さてどんなものがあるだろうか.

そもそも,意志とはどんなものなのだろう.

僕には,それがあれば,自分で決断できるということのように見える.なるほど,自分で判断し,自分で決定し,その決定に責任を持つ,ということが良い基準になるかもしれない.

もし自分で判断できなければ,自分で決定した(と思った)ところで,その決断は自分の意志とは呼べないし,判断が自分で出来なければその決断の結果どうなりえるかを予期して,責任を持つことはできない.典型的な例は,ひとに相談ばかりしてしまう人が挙げられる.相談は適時すべきものだが,度が過ぎると,自分の判断を見失う.相手に状況を説明する,そのときの他人の判断を自分の判断に錯覚するのだ.全く相手の操り人形に等しい.相手に操る意図がなくても,勝手に操られてしまう.

もし自分で判断することができたとしても,自分で決定することができなければ,やはり意志がないということになるだろう.「自分で決定する」ということは「その決定に責任を持つ」ということとセットになっている.つまり,責任を持てない決定は自分でしたとは言えない.責任とは何か,という問題になるが,ここでは,簡単に「何らかの行動をした結果が,自分の予期したものでなかったときを予想する」としておく.何かを決めたとして,その結果を少しも想像できなければ,そこに意志はないのだ.

意志がない,というのは,単純な因果に完全に支配された結果だ.ああ言われたからこう言い返す,ひどいことをされたからひどいことをし返す,など.色々な要因があるのだから,それらに目を向けて,吟味し,どういった行動に出るのか,その結果どうなるのか,それくらいあって,意志があると言える.

環境に流され,自分の惰性にも流された結果なんて,ロクなものじゃないさ.