ばっかじゃないの!

じゃみらー

新しいカテゴリを作った

タイトル通りの記事。
わざわざ記事にしたのにはそれなりの理由がある。


ここに書いている文章の中には、
何かについて世間一般では「こういう風に考えられている」あるいは「こういう風に見なされている」などについて、
「いやいや、こういう風にも考えられるんじゃないかな」という意味で書いている文章がある。
ところが僕は、世間一般の考えや判断について一切言及せずに、ただ自分の思った「こういう風にも考えられる」だけを書いてしまっていることが間々ある。


あくまでも世間一般に対するカウンターとしての何かであること、それを示し忘れると話が通じなくなるのではないか。
もしくは誤解されるのではないか、と。
でもめんどくさくてイチイチそんなの書いてられないので、カテゴリとして作ってしまおうと思い立った。
それが[bon sens]というカテゴリ。
フランス語だそうな。
意味は「良識」だとか。
読みはボン・サンスらしい。
「センス」と違うんだね。
これが付いてる記事は、世間一般で思われていることを思い返してほしい*1
それを踏まえて読んでほしい。


で、まぁなんで「良識」なのかって話になると思う。
ならないか。
なるだろ、やっぱ。
なったとしよう、そうしよう。


これにカテゴライズされるものは、大概は、良識ではない。と思う。
世間一般で受け入れられているものが良識とは限らないが、僕がそれに対して思うことは、たぶん良識ではない。
あくまで幹から生えた枝なので、その枝にしがみつくべきでないと思っている、ということ。
もちろん、実は幹だと思ってたものもまた枝で、しがみつくと折れちゃうこともある。
(世間一般で受け入れられているものも、実は良識でなかったということ)


まとめると、ironic に表現してるってこと。


ちなみに僕は、物事の健全な考え方や健全な判断力として「良識」という語を用いている。
何をもって健全かと言うと、それは社会が人と人との繋がりでできていると考えて、その繋がりをより強固にするものを健全だと言ってる。
逆にその繋がりを弱めたり、ひどい場合は切断してしまうようなものを不健全だと考えている。
信頼に対する裏切りだとか。
もしくは個人の単位で見て、人がより前向きに生きられるようなものを健全だと言う。


というのは分かりやすい説明で、分かりにくくて怪しい説明をすると「健全かどうか」と言うよりも「善か悪か」と言いたい。
和辻哲郎の『倫理学』の1巻をやっと読み終えそうだけど、その中に善悪の定義みたいなものがあった。
岩波文庫の『倫理学(一)』のp.202くらいにある。
引用するの面倒だし、ここだけ引用してもアレすぎるので省きたい。
が、一応。無目的的に引用しとく。

人間存在の理法は絶対的否定性の否定の運動である。人は何らかの共同性から背き出ることにおいて己れの根源から背き出る。この背き出る運動は行為として共同性の破壊であり自己の根源への背反である。だからそれは共同性にあずかる他の人々からヨシとせられぬのみならず、自己の最奥の本質からもヨシとせられぬ。それが「悪」と呼ばれるのである。してみれば、ヨシとせぬ感情あるがゆえに悪が成り立つのではなく、行為自体が背反的性格を持つことによってヨシとせられぬのである。それはまた積極的価値を否定し消極的価値を肯定すること、あるいはヨリ高き価値を離れてヨリ低き価値に付くこと、としても説かれ得るであろう。が、…(中略)…


人間存在の理法は、しかし、絶対的否定性の自己への還帰の運動である。何らかの共同性から背き出ることにおいて己れの根源から背き出た人は、さらにその背反を否定して己れの根源に帰ろうとする。この還元もまた何らかの共同性を実現するという仕方において行われる。この運動もまた人間の行為として、個別性の止揚、人倫的合一の実現、自己の根源への復帰を意味するのである。だからそれは共同性にあずかる人々からヨシとせられるのみならず、自己の最奥の本質からもヨシとせられる。それが「善」である。してみれば、ここでもヨシとする感情に基づいて善の価値が成り立つのではなく、行為自体がその本源への還帰の方向であるがゆえにヨシとせられるのである。だからそれはまた…(以下、略。面白いところはこの後)

ヘーゲルの弁証法みたいなものだと言うと、分かる人には分かるのかもしれない。

*1:「何が世間一般で思われてるのか分からんじゃないか」と思ったら、その記事の話題について自分なりの認識を思い出してくだしあ。それが大体は世間一般で思われていることです。本当にそうなのか心配になったら、身近な人に訊いてみると尚よいと思います。サンプル数が多ければ一般性が増しますゆえ。