ばっかじゃないの!

じゃみらー

向き合うほどに、見えなくなる

どえらいものを見た。と思った。
すべてのことに興味がありません。やりたいことが特にありません。別に今の状態でもいいのかもしれませんが、どうしたらいいでしょうか?
質問の回答に対して、質問者自身がコメントをしていっているのを眺めているなかで、ふと思ったことがある。


物事は、あんまりにも向き合うと、逆に見えなくなっていく。

正確には、その物事は向き合う以前よりか、よく見えるようにはなっている。
けれど、それを全体として捉えることを見失ってしまっているのだと思う。
つまり細かいことに気が行き過ぎるということ。
言うなれば「木を見て森を見ず」か。
少し違うか。


自分は何がしたいのか?を考えれば考えるほど、その答えに自信を持てなくなるときがある。
そして自棄をおこして、自分はそんなことをしたいんじゃない!となったらオシマイ。


この質問者について言えば「本当にやりたいことが見つからない。何をするにも楽しめない。」という煮詰まった状態から、
さまざまな人の回答を受けていくうちに「それは生き甲斐がないからだ」という一つの結論を導き出した。
そこで話は終わらずに、さらに「じゃあ楽しかったころの生き甲斐って何だったっけ」と一歩進んだ。
おもしろいことに「楽しかったころも別に生き甲斐があったわけじゃなかった。ただ何かに夢中になっていた。それが楽しかった」という展開に。
最終的に「だから単純に自分がはまれるものをやればいい」ということに落ち着き、「なので身近なことから片付けていくことにします」として、動き出している。


この人はきっと気づいてないのだろうが、はじめの問題「本当にやりたいこと」から徐々に離れていくことで問題を解決している。
そもそも、その「本当にやりたいこと」を考えるということがクセ者だったのだ。


「やりたいこと」ならあるのに、どれもこれも「本当にやりたい」とは思えない。
そう思うとやりたいことさえ楽しんでやれない。


「やりたいこと」に向き合いすぎると、自分を見失う。
それが本物かどうかは重要ではなく、ただ「やりたいこと」をやればいい。
気付けば、それが本物になっている。


そういうこと。


蛇足になるだろうけれど、物事に向き合ってさえ、全体を捉えられるのなら、向き合うことに意味はある。
つまり「自棄をおこして、自分はそんなことをしたいんじゃない!」とならないこと。


向き合う上で、もっとも大切なことは、向き合う以前の自分を認め、確かに覚えておくこと。
言わば、それが暗闇を行くときの確かな灯火となる。
よりどころなしには暗闇は抜けられない。